助けあいジャパン

June 1, 2011

「愛の」遊び

たぶんこの遊びを始めたのは、浪人時代。35年前の話だ(爆)。

18歳の僕は完全に文科系、第一志望の国立H大学(亡くなったオヤジの母校)には玉砕して(当たり前だ、高校時代は受験勉強なんて無縁で、ギターと歌とサッカーとナンパしかやってなかった)、英語と数学だけは出来たので奇跡的にK義塾大学には受かって学籍はあったものの、入学する気は全然なくオヤジに頼みこんで浪人させてもらう事にした。

当時の僕は、生意気で自信過剰でシニカルで、頭でっかちな男の子だった(あああっ、今憶い出しても、すべてにハズカシい!)。お茶の水にあるS台予備校で浪人生活が始まって、すぐにクラスメートのMちゃんと付き合いだした。当時の美少女の典型である長いストレートの髪の、スタイルのいい活発な女の子だった。彼女はいつも白い(スゴくセンスのいい)Tシャツと洗いざらしのジーンズ姿。今でこそ「普通」だけれど、当時はきれいな洗いざらしのシーンズを自作すること自体が大仕事だったのだ。スタイルがよくて、白いTシャツの下に揺れる彼女の健康的な胸の膨らみにドキドキした。原宿MILKの服を着ているような、ちゃらちゃらヒラヒラした、それまで付き合っていたようなふわふわした「女の子」とは違った彼女の「クールなオトナの価値観」が新鮮で、僕はすぐに彼女を好きになって、5月初めには僕らは付き合い出した。

Mちゃんは、、S台予備校の実力試験でも模擬試験でもダントツの成績だったし、「すべて」において僕より優れていて、読んでいる本も聴いている音楽も周囲に居る大人達(大学生たち)も、僕には別世界のことだった。そして、彼女の姉さんはT大の教養学部のマドンナとして有名な美人だった。今考えてみると、彼女も偉大なお姉さんに対して劣等感があったのかもしれないけれど。

僕らはそんな全然釣り合わないカップルだったにも拘らず、なぜか6月下旬までは仲良く、毎日予備校の放課後に原宿の渋谷図書館に一緒に通っていたのだ。で、僕は6月24日に彼女に「突然フラレる」ことになる(ここでは長くなるので、詳細略)。
その後2週間して、僕は医者の道を目指す事になった。つまり僕は彼女と出会わなければ、医者になっていなかった。今Mちゃんが、どこで何をやっているのかは知らないし、今後も知りたいとは思わないけれど。
さはさりながら・・・。

その当時からオトナの彼女と話していた頃に、二人でよく遊んだのが「愛の」遊び。いろんなモノゴト、出来事、組織、会社、政党、大人達、宗教、学校・・・・思いつく限りのものに「愛の」をつけるのだ。高田馬場や原宿や代々木の喫茶店で。、18歳の僕らは、その噓くささに大爆笑した。

愛の、高校
愛の共産党
愛の創価学会
愛の立食いそば
愛のアオキイサオ(当時のヒーローだった)
愛の自由民主党

愛の・・・・

自分の立ち位置を確認する上でも、この遊びは有効かもしれない。つまり「愛の」という言葉を付けるだけでその本体の「嘘くささ」が透けて見えるのだ。さらに言葉を逆にすると面白い。

自民党の愛・・・・えっ???
カンナオトの愛・・・へっ?

つまり、そういうこと。真実が透けて見える遊びだ。
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