助けあいジャパン

April 11, 2011

ネッチケット教育について

Facebookなどのソーシャルネットワークの人間関係について、基本的な作法とか礼儀とか距離感とかを初等教育の時点から、かなりしっかりと教育する必要があると痛感する。リアルの世界では、生まれて大人になるまでの過程で、親、兄弟、家族、学校、地域、職場などの人間関係を通して、通常はその大切な人との「距離感」とか「プライバシー」の大切さとか「マナー」を少しずつ体得していく。褒められたり恥をかいたりしながら。ところがIT技術はあまりにも急速に進歩してきたので、ネット空間での「マナー」とか「慣習」や「しきたり」は既存のものとは異なる(というか同じではない)事も多く、いわゆる「文化的なレベル」にまで熟成する前に、次の新しい技術が台頭してきてしまうのだ。だから使用者/当事者である僕らは、それこそ必死に試行錯誤しながら、なんとなくルールらしきものが出来あがってくることになる。つまり従前の礼儀や儀式的な「プロトコール」とか「ルールブック」とかは皆無で「不文律」の多い世界。これがなかなか難しい。最近じゃFacebookの人間関係の距離感とか使い勝手について、僕もやっと判ってきた気がしている。みんな悩んでいるみたいで、よく人にも聞かれるし。

考えてみれば、1980年代後半のCompuserveとかNiftyserveのパソコン通信の時代から、インターネットの時代になり、さらにMixiなどのSNS, 最近のTwitterやFacebookなどのネット上のコミュニケーションまで、25年以上この世界を体験してきた訳だけれど、まあどの時代も「同じようなこと」が問題になり、「同じような厄介な事」が起こり、「同じようなソリューション」が解決策になっている。速度感が昔とはずいぶん変化したけれど、一言で言えば基本は一緒だと思う。ネット上の繋がりは本人の属性を正直にexposeしている限りに置いては、基本的には「性善説」でいいと思うけれど、どこまでそれを公開するか?については、見ている人の姿が見えない分、できるだけ神経質になったほうがいいということだ。どのように自分が人に見えているのか?について意識していた方が賢い振る舞い方だと思う。上手く言えないけれど。反面、②チャンネルに代表されるような匿名性のある情報のやり取りは、「トイレの落書き」みたいなもので、ドス黒い人間の汚い部分を表している。基本「性悪説」。そういう「いいことも悪い事」も教え、そのネット上の振る舞い方や礼儀の基本を教えてあげる教育が絶対に必要だと思う。え?誰が何を教えるのか?それが問題なのだけれど。でも、まあ、そーゆーことだ。

あ、でも今気付いたけれど、新しいコミュニケーションメディアとしてとアナログ的な手書きの手紙の素晴らしさ、というか優位性は再認識されるべきものだと思う。これからの時代にはそれを書けるというのも「特別な素養」なのだ。「手紙」が注目されるかも。

今日もまた大きな余震、震度6。驚かなくなってしまっている自分に驚く。
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